昭和50年06月22日 特別奉修委員



 高橋さんが御届けをされました中に、経営の上で非常に難しい問題が起きておる。その事をどう裁かせてもらい、どうお繰り合わせを頂いたら良いかと云う事で御座いましたが、その事を私神様に御願いさせて貰いよりましたらね、広ろういその日章旗です。白地に赤のね所謂日章旗を頂いてね、まあ是が例えば日章旗であるとするならね、この上にねハクセンをねハクセンを白扇をこうおいてある所を頂いたのです。
 どう云う事であろうかと思うて神様にお伺いさせて頂いたんですけれども、その難儀な例えば困った問題と言った様なものは、そのうまぁおかげを頂いて行けば良いのだけれどもね、御願いをしておかげを頂いて行けば良いのだけれども、それによって自分が解らして貰わなければならない問題、その難儀な問題を通して自分が解らなければならない事をお知らせ下さったのだと思うんです。
 赤に白と云う事はどう云う事かと言うとね、是はあの紅白と云うのは真心と云う事です。赤いと云う事は赤心と云うですね。真心の事を赤心赤い心といいます。ですからそのう自分の頂いておる真心と云う物の、真心の検討だと思うですね追求だと思うです。ね。ですから自分の家庭の中に自分の経営しておるそのお店の例えばその高橋さんの場合なんかは、まあ九州中に十件もお店を持っておられるというのですから、随分とても一々中々手が実際は届きそうにないのですから。
 矢張り神様のおかげを本当に頂かなければ出来ん訳です。ですからあのうそのう自分の信心と例えば高橋さんの信心を福岡から毎日ああして朝参りして見えるというだけでも、大変な事ですよね。ならあちらが頂いておられる御用と云う物は合楽でどう云うその位に高橋さんが、ある意味占めておられるかと云う事ですよね。と云う様ななら、御用も出来ておるお参りも出来ておる、熱心でもあるというからね。
 もうそれでもちっと信心ば頑張りなさいとだけは言えん位に頑張っちゃる訳ですね。しかも二十年近く兎に角あなた福岡から此処まで参って来るだけでもね、なら御用があるなら、二辺でも三辺でも言ったり来たりしなさる。と云う位なまあいうならそういういっぱしの信心をさせて頂いておられるのです。所がこの頃その、そのうそりゃま無理もない事ですけれども、朝の御祈念にお参りが出来なくなった。御祈念の丁度後位にお参りをして見える。そう云う様な事がですね。
 あのう私として、はぁあんたもうちっと頑張りなさい、もうあれ以上は手が叩かれんという感じがするんです。あれだけ一生懸命になっておられる。けれども神様の目から御覧になると形じゃない、心の面に置くともう限りがないのです。真心というしかも事になって来る時にです、是はもう大変な事なんですからね。真心の追求と云う物は。先程熊谷さんが御届けをされました。それはね熊谷さんとてもなら二十何年間それこそ三里の道をいといもせずに最近なんかは、もう朝晩のお参り。
 しかもお年といやぁもうやんがて八十になろうと云われる方がですそれこそ、朝のお参りそして、晩のお参りと云う風にまぁお参りをし続けて、勿論あの様におかげを受けておられます。ね。まぁ勿論信心がもう今日の御理解じゃないけれども、芯もわかりゃ副食も解って頂いておられると云う感じであります。けれどもね是がそのう、所謂合楽と云う信心。神も助かり氏子も立ち行くという信心。私が助かったら神様も一緒に助かって頂かなんならんて云う程しの信心となると限りが無い。
 昨夜も夜の御祈念にお参りをする時、もうそれこそしのつく雨であったち。だから所が心が弾んで来る。もう例えば風があればある程、雨が降れば降る程心が弾んで来る。是が本当の心の状態ですね。はぁ今日はしるしかけんでと云う様な時には本当はもう渋々ながらのお参りである。だからまあ、修行と思うて参ろうと云う位な事ですけれども、雨がそれこそそういうしのつく雨の中にお参りしたいと云う心はこう湧いて来る訳なんです。所がもう何時もああしてお湿りなんかん時にはお参りなんかすると。
 奥様やら池尻さんやらがとっても気を遣うて下さる。もう熊谷さん大事にして帰って下さいと言うてもう、その、お湿りの中に参って見えると奥様達に大変心を遣わせるから、もうその遣わせることが気の毒なん。だから今日はまあ心では参りとうて堪らん様な気持ちがあるけれども、今日は御無礼しようと云う事になったら今朝からお夢を頂かれた。そのお夢がどう云うお夢かというとですね。
 例えば成程周囲のものが気を遣う位にはあ七十幾つにもなって、しかも夜に此のしかも此のこう云う雨どしゃぶりの中にね、お参りをしてから、ちょっと怪我でもしたらどうするですかと言うて、心配して呉れる訳です。皆んなが。けれどもね、例えばならそういう雨を侵してならお参りに成ると此処になら、お参りをしておる人達がです、はあ私共が参るの参らんのどんじゃなか、七十幾つにもなるおばあさんが、しかも朝参りをしとってから又、夜もああして参られる。
 しかも特別に願わんならん頼まんならんと云う事も無い程しに、おかげを頂いておる熊谷さんが、ああいう信心をなさるとても私共もぐずぐずしておられんという様にね、周囲に与える元気な心と云う物は是はもう限りがないものです。熊谷さんそう言う時には人に心を遣わせると言った様な事は小さい事であって、自分の思いがどの位横に広がって行く事の為に、そう云う働きをしておるかと思うたらやっぱ参らないけんですなと云う御理解でした。なら高橋さんの場合でもそうです。ね。
 私は所謂、店の難儀な問題をお取次させて頂いたら、それはお取次を頂いておかげを頂く様にだけれども、頂いたご理解は所謂白地に赤い日の丸の上に白扇を置いた。この白地に赤いと云う信心が出来たらこの扇子は必ず広げて下さると云う事なんです。広がっていない。肝心要の所がしっかりしておる。しかも所が広がって、所謂あの末広のおかげを頂く為にはもちっと真心の追求をせろと言う、私は只今の御祈念にですね。
 はぁ真心真心と言うがね、真心とは自分自身の為に幾ら真心を表した所でそれは大した事はないです。真心とは赤心とは例えば中心と言われる人がね、言うならば国を思う人を中心というんです。親を思う人を孝子(こうし)と言うです。神様を思うと言う人を篤信の信者というのです。自分の事の為にどがしこ昼参り夜参りが出来ておった所が、どんなに御用が出来ようが自分の為に参りよるとは是は篤信とはいえんです。そうでしょうもん。欲と二人で参いよるとと言うてもよか訳だもん。
 そうではない教会の事を思い、道の事を思い人が助からっしゃる事を思うて、現す真心こそが赤心、私は今日この事を始めて気付かせて頂いてですね、是は愈々もって合楽示現活動をですね、言うならば高橋さんが御祈念後に参られるお参りと御祈念の中にお参りになるというのは大変な違いだと云う事です。はぁ高橋さんちゃ関心なお方じゃある。兎に角夕べも遅うまで此処で御用を頂き御座ったが朝は朝で朝の御祈念に参って来なさると沢山の人が見たり思うたりする訳です。
 最近なほんに高橋さんがお参りが有りよらんちこう言う訳です。もうそれだけでも皆んなの信心の士気に関わるです。例えば高橋さんがそういう中にあって、なら朝参りを本気でなさる事になればです、所謂自分と神様が繋がっておる親先生と繋がりゃそれでいいけれども横への繋がりと云う事にはならない。此処ん所が出来た時に赤心と言う事が言えるんだと。私は改めて此の事を思わせて頂いた。
 熊谷さんのそれから言うてもそうです。自分が参ると云う事が自分一人だけの事ではない。ね。成程奥様やら皆さんに気を遣わせる事も確かであろう。けどその位の事ではない。他の方達は元気が出ると云う事は。ね。言うならば其処ん所を私は真心と云う、本当の意味においての真心と言うのだ、その真心を持って願えばおかげになると言うのです。ですから私の信心が愈々ね。
 成長しなければ、本当に育たなければ、ほんな自分の事だけ自分の店の事だけ、そんならどがしこ逆たんぼうって拝だっちゃですよ、おかげは頂いてもそれは真心信心とは言えない。それは自分の事じゃけん。それは我がこつじゃからそりゃそりゃ我が事と苦が坂は急ぐ者んはおらん。ね。それじゃ大した事はないです。信心が育って、ね、言うならば教会を中心にした考え方。
 自分の思いがどの位そこの教会の、例えば士気に関わるかと云う位な事を考えたら、矢張り朝の御祈念なら御祈念に、参らなければ是は無言の、言うならば合楽次元活動になるわけです。熊谷さんの場合でもなら高橋さんの場合でもそうなんです。そこになら思いを一心を打ち込む事こそが真心だと云う事になります。真心というのは自分の事に一生懸命になる事、是もやっぱり真心が要ります。
 けれども本当の意味においての真心というならば、ご信者さんが教会の事を思うて、道の事を思うて、修行をすると云った様なそれこそが真心なんだ。自分の参拝がどの位合楽御比礼に関わるかと思うたら、一番御比礼に成る様なお参りの仕方を工夫すると云う様な事がね大事な事だと云う事が解ります。今日私は改めてその事を解らせて頂いて、はぁ赤心とは真心とは、ね、愈々この扇子が開かれると云う事はそう云う事に気付かにゃいけないなと言う事であります。
   どうぞ。